一本のジーンズと一枚のTシャツが100年続くブランドの最初の一歩
- タナカサヨリ デザイナー
- 2001年ファッションデザイン学科卒業
長く着られて、長く愛せる。新たな定番としての可能性を探る
新潟で生まれ育ち、東京、上海、ニューヨーク、パリと、世界を舞台に活動の場を広げてきたタナカサヨリ氏が手掛けるTANAKA。NYを拠点として2017年にデビューして以来、オーセンティックでありながら、どこか日本の情緒を感じさせるような独特の空気感を漂わせ、最近では欧州でも人気が高まっている。
コンセプトは、「今までの100年とこれからの100年を紡ぐ服」。現在はNYを拠点に置きながら、日本と中国で生産を行う。「NYから受けた良い部分を取り入れたかったのでアメリカンカジュアルではあるのですが、日本の技術や、私が日本人としてもっている詫び寂のようなものが感じられる服をつくりたいと思いました。モダンで上品で、NYにいる人達でも着られる服という意味では隙間があるように感じたんです。そのうえで、トレンドを追い求めて、今デザインして来年着られなくなる服はつくりたくありませんでした。いつもクローゼットの中にあって、今年着て、来年着て、再来年は着ないかもしれないけれど、5年後に見たらまた着たくなるような、捨てられずに持っておきたいと思ってもらえる服をつくらないと、ブランドとして意味がないんじゃないかと思って」。
洋画家であり着物のテキスタイルデザインをしていた父と、日本庭園の庭師だった祖父の影響から、小さい頃からアートが身の回りに当たり前のようにあったという。ブランド名は、フルネームではなく、あえて苗字だけのTANAKAを冠した。「自分は家族の影響で今の生業をしているという気持ちがありますし、家族のレガシーを継ぎたいという意味も込めてTANAKAと名付けました。日本で4番目に多い苗字なので、皆さん馴染みがあると思いますし、そういう名前が海外に出ることで、日本を代表するブランドになっていけたらいいなという思いもあります」
卒業後、ヨウジヤマモト、ファーストリテイリングを経て独立。異色の経歴をもち、今度は自分の力だけでブランドを立ち上げるという挑戦に苦労はなかったのだろうか。「今でもまったく同じ商品を継続しているのですが、最初は本当に一本のジーンズと一枚のTシャツくらいの規模から始めました。そこから、この数シーズンは日本の技術やアートなど、何かしらの付加価値や楽しさみたいなものを取り入れていて、お客さんの反応を見ながらブランドとしてのアイデンティティをさらに強めていこうとしているところです。一方で、すごく純粋無垢な部分はこれまで以上に大事にしていきたいですね。もちろんつくることはできるのですが、海外でどうやって売っていくかに関しては本当に手探りでした。個人で一からスタートしたので、最初はトレードショーに出して反応を見ることを繰り返して、何かに直面してクリアして、また何かに直面して……ということを繰り返している感じですが、今は各地域にセールスチームがジョインしてくれていて、まさにこれから拡大していく最中です。」
持続可能、サスティナブルな生産という意味でも、生地のオーダーは慎重さを伴う。今までの生産背景を活かして、デニムは信頼のおける岡山の工場に依頼している。「前職でデニムをつくるとなると、基本は新しいテクノロジーの生地で、機能違いや色違いなど、たくさんのなかから試織できるようなつくり方だったのですが、今は最もオーセンティックで、日本らしくてクオリティの高い生地を選んで、それをずっと使い続けいます。日本の誇るシャトル織機を使ったセルビッチデニムを使い続けていたり、その横糸にオリジナルでリサイクルコットンを使用したりしていることもTANAKA的サスティナブルの一環です。」
コロナ禍といえど、評判は上々。セールスも順調に伸びているなか、今の夢を伺った。「これも最初から思っていたことなのですが、リーバイスとかヘインズとか、そういったブランドになれたらなあと思っています。それは、ただジーンズやTシャツをつくるということではなく、誰かの意志によって始まったブランドが100年以上続いていて、現代にも合うようにいつもアップデートし続けた結果、今では生活に必要不可欠なものになっているということ。新しい価値観のもと、多くの人の新たな定番になるような服をつくって、そしてそれを長く持続させていくということが大きな目標です」
PROFILE
卒業後、ヨウジヤマモトに入社。「ヨウジヤマモト ファム」「ヨウジヤマモト プールオム」「ワイズ フォー メン」で企画とニットカットソーデザイナーとして経験を積む。その後、ファーストリテイリングに転職し、中国、上海、NYのグローバルチームのディレクターとして商品開発に携わる。2017年、NYを拠点として、「TANAKA」をスタート。